閑谷学校の紹介

「学び」について

閑谷学校は寛文10年(1670)に、岡山藩主池田光政によって設立されました。学校には村役人をはじめとする農民や医者、武士といったいろいろな身分の人たちが学びに来ています。また、岡山藩領の外からも、武士や村役人など様々な身分の人の入学を受け入れています。閑谷学校は、幅広い人々に開かれた学校でした。

閑谷学校の教育の中心は儒学です。入学すると、まず習字と、儒学の経書の素読を行います。素読は『孝経』『小学』そして四書・五経からはじめ、『史記』『漢書』などの中国の史書へと進みます。

多くの生徒は、習字と素読を終えた段階で学校を離れ、地域で様々な役職について活躍します。優秀な生徒にはより高度な内容の教育が行われました。

教授に使用した資料や、学習用の典籍等は、大きく散逸することなく伝えられた学校資料としてわが国教育史上意義が深いとされ、一括して国の重要文化財に指定されています。

閑谷学校では、午後4時ごろから午後6時ごろの休憩時間を除いて、朝7時ごろから夜10時ごろまで寸暇なく勉強するように、と定められていました。

学習のスケジュールは5日が一つの単位となっており、4日間の学習の後、5日目は休みになります。学習内容は習字と素読が中心ですが、毎月1と6が付く日には講堂で四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)の、3と8が付く日には習芸斎で五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)などの講釈が行われました。

このほか、1の付く日には、午後6時ごろから8時ごろまで教官の自宅に生徒が集まり、3〜4人ずつが一組になって小学や四書・五経などを読み、お互いに間違いを指摘して席順を決めたりしていました。月はじめには、小学・四書・五経を書き付けた木札を使用して、記憶力を試す試験も行われたり、定期的に漢詩と漢文をつくる詩会や文会なども行われていました。

また、毎月1日の朝には、朱子(1130〜1200)が白鹿洞書院に掲げた学規「白鹿洞書院掲示(朱文公学規)」の講釈が習芸斎で行われ、この講釈には在校生のほか、近くの村に住む農民なども出席しました。「白鹿洞書院掲示」は朱子の学説が簡明に示されているとされています。

閑谷学校の紹介

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